「陽キャだよね」と言われる理由が、ようやく腑に落ちた話― 見え方と内側の消耗は、まったく別だった ―

共感体質シリーズ第3章のアイキャッチ画像

学生時代の友だちに、いまだに言われます。
「つむぎって陽キャだよね」って。

いや、違うって(笑)
大晦日に一緒にダラダラ過ごすような仲だし、
今の私の性格も知っているはずなのに、
なぜかずっと「陽キャ枠」に入れたがる。

私は別に怒っていなくて、
「いつまで言うんだよ笑」と
ノリで流していますが、
心底そう思ってそうなのが、ずっと不思議でした。

でも最近、ふと腑に落ちたんです。
これは“性格の話”じゃなくて、
分類の仕方の話だったんだな、と。


人は“性格”ではなく“自分との距離”で他人を分類する

「陽キャ/陰キャ」って、
性格診断みたいに見えるけれど、
実際はもっと雑で、
もっと主観的なことが多い気がします。

たとえば、こんなふうに。

  • 自分より外向的に見える人 → 陽キャ
  • 自分より内向的に見える人 → 陰キャ

つまり、絶対評価じゃなくて、相対評価
その人自身を基準にした、位置関係での分類です。

私の友だちも、たぶんこれ。
友だちから見た私は
「彼女基準で、彼女より外向的に見える人」だった。
だから、ずっと陽キャ扱いが更新されない。

性格というより、
“どう見えているか”の話だったんだと思います。

「内側の消耗」は、外からはほとんど見えない

ここが、共感体質のややこしいところ。

私の場合、外側だけ切り取ると、
わりと普通に見えることが多いです。

  • 会話が成立している
  • 相手の話を拾って返せる
  • その場の空気を壊さない
  • 一緒に時間を過ごせる

でも、内側ではわりと色々やっています。
たとえば、こんな感じ。

陽キャ集団7人+私で居酒屋に行った場合。

  • 和の中心はA、サブはBだな
  • 正直全然面白くないけど、ここは笑うところ
  • この人、話を聞いてほしいんだな。
    オーバーリアクションで傾聴しよう
  • Cがお酒や料理のオーダー管理してるから、
    出しゃばらないようにしよう

こういうことを、いちいち言葉にすることもなく、
頭の中で処理しながら、その場にいます。

外から見えるのは、
「普通に楽しそうにしている人」。

でも内側では、
場を成立させるための調整が、静かに走っている。

だから、外側だけを見ている人ほど、こうなる。

「一緒にいられる=陽キャ」
「会話が成立する=社交的」

でも、
成立させられることと、楽であることは別です。

「無理してたこと」を知っていても、分類は更新されない

学生の頃、私は「陽キャになろう」と、
いわゆる 根明修行 をしていた時期がありました。
その友だちは、そのことも知っています。

それでも「結局陽キャでしょ」と言われるのは、
たぶんこういうこと。

その子にとっては、
無理していたプロセスより、
「一緒にいられた」という結果のほうが強い

頑張ってでも、その場に居られた。
会話が成立していた。

だから、「陽キャ」という箱の中に、
ずっと入ったままになる。
内側の疲れや消耗は、分類の材料に入らない。

これは誤解というより、
見ている方向の違いなんだな、
そう思うようになりました。

だから訂正しても噛み合わない

私が「いや違うって笑」と言っても、
どこか噛み合わないのは、
相手は“内側の話”をしていないから。

相手が言っているのは、たぶんこれです。

「私から見たあなたは、陽キャ側に見える」

私は、疲れ方や回復の仕方、
思考の癖の話をしていて、
相手は、行動や見え方の話をしている。

同じ言葉を使っていても、
見ている方向が違えば、話はすれ違う。

それに気づいてから、
「訂正しなくてもいいや」
そう思えるようになりました。

おわりに

「陽キャだよね」と言われるのは、
私の本質がそうだからではなく、
友だちの分類が本人基準の相対評価だったから。

外側の振る舞いは、
状況によっていくらでも変わる。

でも内側の感覚は、私だけのもの。

誰かのラベルがどうであれ、
私は私の疲れ方と回復の仕方を知っている。

それが分かっているだけで、
人の言葉に振り回される回数は、
少しずつ減っていく気がします。