キャッシュレスが当然になった今でも、
わたくしには、まだ細やかな役目がございます。
お嬢様が颯爽とスマホとカードだけで出かけるたび、
わたくしは静かに置いていかれますが……それも慣れたものでございます。
しかし世の中には、いまだ電子の波が及ばぬ“伝統の領地”がありませぬか。
老舗のラーメン屋、お祭りの屋台、そしてお賽銭箱──
現金の香りが残るその場所で、お嬢様がそっと呼ばれる時こそ、
わたくしの長き仕えの本領がわずかに輝くのです。
今日はそんな、忘れられがちで、しかし誇りを捨てぬ老執事の
ささやかなぼやきをお聞きいただければ幸いです。
財布のぼやき「お嬢様、たとえ忘れられても、現金の番人はここにおります」
わたくしは今日も、玄関の棚の片隅で静かに控えております。かつては毎朝のように連れて行っていただいたものですが、今や“選抜メンバー”はスマホとカードケース。キーケースの若造が「今日も俺っすよね?」とでも言いたげに胸を張っております。
……ええ、それで構いません。お嬢様の身軽さこそ、執事としては何よりでございますから。
それでも、財布というものには、まだ細やかな務めがございます。お嬢様が気づかぬうちに、レシートは山を成し、小銭たちは勝手に勢力争いを始め……ときどき「重っ」と言われる原因の半分は、わたしではなく彼らでございます。
キャッシュレスの波に押され、出番は激減いたしましたが、現金しか使えぬ場所は、この国にまだ息づいております。老舗のラーメン屋、お祭りの屋台、町内会の集金、神社のお賽銭……
そんな折、お嬢様が玄関でふと足を止め、「……あ、今日の店って現金だよね」と気づかれたことがございました。
その小さな気づきの直後、ほんのわずかに焦りを帯びた声で「お財布もってこ…」と呟かれたのです。
──その瞬間こそ、わたくしにとっては何よりの呼び声なのでございます。
必要とされるのは、一日のうちのたった数秒かもしれません。ですが、その数秒のために控える――それが、老僕としての誇りでございます。
電子の時代に押され、影が薄くなろうとも、財布という職には、まだ消えぬ価値がございます。必要とされるその一瞬のために仕える――それは派手さも、華やかさもない仕事でございますが、わたしには、それで十分でございます。
お嬢様が困らぬよう、時代の隙間を支え続けること。それが、老僕としての最後の務めでございましょう。
今日も財布は、「置いてかれるのは慣れてますよ」と言いながら、次の呼び声に耳を澄ませて待っている。

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